出典: https://www.youtube.com/watch?v=LJ_l_DQ1AnU
この対談でSean氏が扱うのは、量子力学が100年を経ても閉じない基礎的な問いです。私は波動関数は道具か実在かという一点で読みました。測定という言葉が基礎理論の中で定義されないまま残っていることに引っかかったからです。観測者を古典の側に切り離す発想を外したときに、世界の見え方がどう組み替わるかを手渡したいと思っています。
コペンハーゲンが残した二つの穴を一望する
Sean氏は、量子力学の奇妙さを手早く示す装置として、二重スリット実験が持ち出されます。Youngが1801年に光で示した波の干渉を、電子でも一つずつ送ることで確かめます。検出器では点として現れるのに、多数回を重ねると縞が浮かびます。Jönssonが1961年に電子干渉を示し、外村彰らが1989年に一電子ずつの蓄積を映像化しています。どちらのスリットを通ったかを測定すると縞は消えます。見ないときの広がりと見たときの点という対比が土台として置かれます。
“The answer is it’s a wave when you’re not looking at it and it’s a particle when you are.”
訳:答えは、見ていないときは波であり、見ると粒子になるということです。
Sean氏は、この一言は実験の要点を正確に切り取っています。見ていない間の波としての広がりと、測定の瞬間の粒子としての局在が同じ対象の二つの現れとして並んでいます。波動関数という言葉はこの広がりを記述する素朴な名付けとして導入されます。Bornが1926年に示した確率解釈によれば、絶対値の二乗が測定結果の確率を与えるという関係が置かれますが、波動関数そのものを直接見ることはできません。見えるのは常に測定結果だけです。
Sean氏の整理によれば、ここでコペンハーゲン解釈の立場がはっきりします。1927年のソルベー会議を背景にBohrやHeisenbergらに由来する考え方として語られます。波動関数は測定まで波として広がり、測定の瞬間に収縮して特定の値に定まるという描像です。測定結果の確率は与えられますが、見られていないときに何が起きているかは問わないという割り切りが含まれています。
“It is a way of calculating measurement outcomes. And all that is real are the measurement outcomes. There’s no such thing as what is happening in the quantum world when you are not looking at it.”
訳:それは測定結果を計算するための道具にすぎない。実在するのは測定結果だけだ。あなたが見ていないときに量子世界で何が起きているかなど存在しない。
この立場は二つの穴を残します。一つは測定が定義されていないという問題、もう一つは波動関数が実在か道具かという問題です。前者は次節でほどきます。後者は多世界解釈が波動関数を実在と置くことが出口として示されます。Everettが1957年に相対状態として定式化し、DeWittが1970年に多世界と名付けた流れが背景にあります。ここでは対比だけを押さえ詳細は深掘りへ送ります。
測定という境界がほどけるとき
Sean氏の説明では、コペンハーゲン解釈の測定問題は驚くほど素朴な問いから始まります。測定とは何か、いつ起きるのか、何が測定として数えられるのかという問いに答えが用意されていないという指摘です。装置の大きさや観測者の種類で線引きを変えようとしても、原理的な定義が欠けたままでは基礎理論としての体をなさないという見立てが示されます。
“What is a measurement? When does that happen? What counts? No one knows. Nobody has any idea. It’s an undefined idea in the Copenhagen interpretation of quantum mechanics.”
訳:測定とは何か。いつ起きるのか。何が測定として数えられるのか。誰も知らない。誰一人として分かっていない。コペンハーゲン解釈では未定義の概念なのです。
人か猫かビデオカメラか石かという例は、境界をどこに置いても恣意的になることを示すために挙げられます。古典力学では測定は外側の操作として扱えたとされる一方で、量子力学では測定という語が基礎法則の中に入り込んでいるとされる。そこに定義がない事態は、理論の語彙に穴が空いていることを意味します。私はこの穴を、解釈の好みではなく理論の未完成として受け止めました。線引き自体が原理から導かれていない点が引っかかります。
ハイゼンベルクカットという切断線
この穴を一時的に塞ぐために置かれたのがハイゼンベルクカットと呼ばれる切断線です。von Neumannが1932年に測定連鎖として論じ、Wignerが1961年に友人の思考実験で問題を先鋭化させたように、観測者を古典的に、対象を量子的に分ける操作が想定されます。対象の波動関数は量子的に扱い、測定装置や観測者は古典的に扱うという二層構造です。
Sean氏は、しかし観測者自身が原子からできている以上、この切断は原理的に持ちません。どこで切っても反対側を量子的に扱えてしまうからです。切断の位置を動かしても予測が変わらないように見えることは、切断が物理的境界ではないことを示しています。Sean氏が最も強く退けるのはこの点です。原子でできた観測者を例外扱いすることは整合的に支えられないという見方が示されます。私は例外を置くほど理論は複雑になり、外すほど像は素直になるという逆説を感じました。
宇宙の波動関数とエンタングルメント
Sean氏は、切断を外すと別の像が現れます。部分系ごとに独立の波動関数があるのではなく、世界全体に一つの波動関数があるという見方です。宇宙の波動関数と呼ばれるこの考え方では、世界がこう見える確率を一括して与えるものとして置かれます。私たちが観測するのはその一部分ですが、背後では全体の確率が一つの関数に畳み込まれています。
ここからエンタングルメントという相関が自然に出てきます。二つの粒子が反対方向に進むという知識しかない場合、片方の運動を測定すれば他方も直ちに定まる関係として説明されることがあります。EPRが1935年に指摘し、Bellが1964年に不等式として検証可能性を与え、Aspectらが1982年に実験で確かめ2022年のノーベル物理学賞へつながった流れは、この相関が単なる知識不足ではなく世界の構造に関わることを示しています。
Sean氏の多世界解釈は、このエンタングルメントを観測の説明にそのまま用います。測定とは観測者の状態が対象とエンタングルすることだという理解です。電子だけでなく電子と観測者を合わせた結合系が重ね合わせになるという像で、測定に特別な地位は置かれません。
“Wave functions are real. They represent reality precisely and completely. […] Measuring apparatuses and observers obey the laws of physics. They’re quantum mechanical systems. They obey the Schrodinger equation, the same equation that everything else obeys. And there’s nothing special about measurement.”
訳:波動関数は実在し、現実を正確に完全に表している。測定装置も観測者も物理法則に従う量子系であり、他の万物と同じシュレーディンガー方程式に従う。測定に特別なものは何もない。
この立場は波動関数の実在を正面から引き受け、観測者を例外から引き戻します。シュレーディンガー方程式がすべての系に同じように適用されるという一貫性が、境界をほどく手つきになっているとされる。Zehが1970年に、Zurekが1981年に整備したデコヒーレンスの考え方は、多数の粒子が環境とエンタングルすることで日常の干渉が見えなくなることを説明する補助線として理解できます。単一の切断線ではなく、無数の自由度との絡まりが古典的に見える振る舞いを生むという筋道です。
確率と解釈が併存する理由
Sean氏は、波動関数をめぐるもう一つの穴は、確率という言葉の足場が哲学的に固まっていないことです。頻度として読む立場と信念度として読む立場が並走しているという整理が示されます。前者は無限回試行の極限で定義される客観的なチャンスとして確率を捉えます。サイコロを無限に振るという古典的な説明が典型で、コペンハーゲン的な量子確率はこの読み方と親和的です。
後者は明日の天気や優勝予想のように、単発の事柄に対する確信度として確率を捉えます。繰り返しができない対象にも私たちは程度の差を持った確信を抱きます。Fuchsらが2002年前後に展開したQBismのような認識論的アプローチや、von Misesの頻度説やde Finettiの主観説をめぐる議論は、二つの読み方がそれぞれに根を持つことを示しています。どちらが正しいかは哲学的に未決着であり、量子力学の解釈もこの未決着を引き受けたまま併存しています。
この併存は、コペンハーゲン解釈が波動関数を道具とみなす場面で鋭く問われます。道具にすぎないはずのものが、二重スリットで自身と干渉するという指摘です。
“Well, when I sent the wave function through these two slits, it interfered with itself. How does something that is not real interfere with itself?”
訳:波動関数を二つのスリットに通したとき、それは自身と干渉した。実在しないものが、どうやって自身と干渉するというのか。
Sean氏は、確率の足し算では説明できない点がここにあります。通常の確率なら経路ごとの確率を足せば全体になりますが、波動関数は正負をとり得るため打ち消しが起きます。明暗の縞は単なる確率の和では出てきません。HarriganとSpekkensが2010年に整理したψの分類や2012年のPBR定理が示すように、干渉は波動関数に物理的実体を感じさせる方向へ引っ張ります。直接観測できないのに物理的なものと同じ振る舞いをするねじれが残ります。
パイロット波が示す別の道筋
別の解釈の位置づけも押さえておきます。de Broglieが1927年に示唆しBohmが1952年に整備したパイロット波あるいはBohm力学は、電子は波でもあり粒子でもあるという最も直截な答えを与えます。波がスリットを通り粒子が波に導かれて進むことで縞ができるという像で、非相対論的領域では数学的に明確に定義できる点が魅力として語られることがあります。
一方で相対論的な場の量子論との整合は簡単ではありません。パイロット波をそのまま場の理論へ持ち上げると構成が途端に重くなるという事情が指摘されます。私はこの重さを技術的な未整備として片付けるのではなく、解釈の空間が整理されつつある過程の現れとして読みました。客観収縮モデルのようにGRWが1986年に示したように収縮自体を物理過程として書き込む試みも、この併存の中に位置づけられます。
式から時間が消え矢が生まれるまで
Sean氏は、量子力学と重力の関係は、通常の量子化が重力では素直に機能しない点に集約されます。量子力学は古典力学に代わる枠組みですが、物理では教育上、古典系を量子化する手順で学ぶと整理されることがあります。電磁気力や核力ではそうした手法で整合的とされる量子論が構築されてきたとされますが、一般相対性理論が記述する重力では同じ手順がうまく働きません。Sean氏は正しい量子重力は既存の古典理論を量子化したものではないかもしれないという見立てを示します。重力が量子化しにくいのではなく、他の力が量子化しやすかったのが幸運だったという反転した見方です。
Wheeler-DeWitt方程式と時間の問題
正準量子化を重力に適用するとWheeler-DeWitt方程式が得られます。DeWittが1967年に示したこの式は、宇宙の波動関数の変化率がゼロという形をとります。
“Do that for gravity, and you get this equation called the Wheeler-DeWitt equation, named after two famous physicists. And the Wheeler-DeWitt equation says the rate at which the wave function is changing is zero. That’s all it says. It’s not changing. And so, there is no time.”
訳:それを重力でやると、Wheeler-DeWitt方程式と呼ばれる式が出てくる。二人の有名な物理学者の名を冠した式だ。そしてこの式は、波動関数の変化率がゼロだと言う。言っているのはそれだけだ。変化していない。だから、そこには時間がない。
通常のシュレーディンガー方程式が時間発展を記述するのに対して、ここでは時間そのものが消えるという逆説が現れます。文献では時間の問題と呼ばれてきた主題です。時間がない式から私たちが経験する時間がどう創発するのかという問いが立ち上がります。創発という言葉では片付きますが、具体的な現れ方を導こうとすると導出の道筋によって異なる物理法則が得られるという指摘が紹介されます。どの導出を選ぶかで結果が変わるように見えるとの指摘があり、導出の選択に恣意性が残る可能性が論じられているとされる。私はこの恣意性を、創発という大きな言葉と実際の導出の細部のあいだに開いた隙間として受け止めました。HartleとHawkingが1983年に示した無境界提案やPageとWoottersが1983年に論じた関係的記述も、時間をどう取り出すかという同じ困難の周囲に位置づけられます。
低エントロピーという初期条件
Sean氏は、時間の問題と並走するのが時間の矢の問題です。ニュートン力学もマクスウェル方程式も一般相対性理論もシュレーディンガー方程式も、基本法則自体は時間反転に対して対称です。ところが私たちの経験では過去と未来は明確に非対称です。記憶は過去に属し、未来への因果は届いても過去への因果は届かないという非対称が日常を貫いています。
この矢は初期条件によって説明されることが多いとされます。ビッグバン近傍で宇宙が極めて低いエントロピーから始まったため、そこから増大する方向が矢として現れるという説明です。Boltzmannが1877年にSはk log Wとしてエントロピーを定義したことが背景にあります。巨視的に同じに見える状態を実現する微視的配置の数がエントロピーだという理解です。混ざり合った状態の方が実現できる配置が圧倒的に多いため、エントロピーは増大する方向へ進むとされる。
しかしなぜ初期宇宙のエントロピーがあれほど低かったのかは未解決です。PenroseがWeyl曲率仮説として論じたように、重力の自由度を含めた数え方に鍵があるのではないかという示唆もありますが、決定的な説明は固まっていません。私は法則の対称性と初期条件の非対称性という二層構造を、矢の説明の核心として押さえました。法則だけを見ても矢は出てこず、始まりの置き方に矢が宿るという構図です。
循環する宇宙の試み
初期条件の問題は、宇宙の始まりをどう扱うかという問いへ直結します。ビッグバンは古典的な一般相対性理論の予言としては特異点として現れますが、量子力学が正しいとすれば特異点の記述自体が古典の外挿にすぎない可能性があります。量子重力が分かれば始まりの記述も変わるかもしれないという期待が語られます。
ここで古くからある循環宇宙のアイデアが再訪されます。Hinduの宇宙観やNietzscheの永劫回帰と呼ばれる考えとは別に、一般相対性理論の枠内でも膨張と収縮を繰り返す解は数学的に書けると整理されることがあります。ただしビッグバンとビッグクランチの両端で方程式が破綻するため、バウンスで特異点を置き換える工夫が試みられてきました。問題は矢の扱いです。多くの循環モデルは矢を過去から未来へ一様に置き初期条件として固定してきました。Hawkingもかつて矢の反転を論じて後に誤りを認めたとされるように、収縮期にエントロピーが減少するのか増大し続けるのかは単純には決まりません。
Sean氏がNadia Dyachkova氏やSakshi Dulani氏とともに進めていると対談で触れられるモデルは、シュレーディンガー方程式から出発して状態空間が有界か否かで二分岐するという見立てを示します。有界な場合、有限の可能性の中で無限の時間をかけて滑らかに決定論的に進むなら周期的な解が現れるという筋道です。低エントロピーで始めた宇宙は膨張と冷却を経て熱的死へ向かい、矢が消失した長い平衡を経て時間反転的に収縮へ向かう像が描かれます。バウンスではエントロピーがほぼゼロに戻り、膨張側と収縮側で互いに相手を未来と呼ぶ関係が示唆されます。私はこの像を、矢を一方向に固定せず低エントロピーを周期の中に織り込む試みとして読みました。未完成の構想として受け止めつつ、創発と矢の起源を同じ土俵で考えようとする姿勢に、測定問題で見たのと同じ一貫性への志向を感じます。
世界はこう見え直す
測定という言葉に特別な地位を置かず、波動関数を実在として最後まで扱うと、世界の見え方はすっきりします。私が持ち帰ったのもこのすっきりさです。切断線をどこに引くかで悩む代わりに、観測者も装置も同じ方程式に従う量子系として扱い、結合系の重ね合わせとして観測を記述する一貫性が得られます。分岐は付け足される主張ではなく、式を真面目に受け取った帰結として現れるという整理は、測定の神秘化を避ける道筋として腑に落ちました。
同時に、低エントロピーという初期条件の謎は残ります。矢を法則ではなく始まりの置き方に帰す説明は、矢の向きを理解させつつ、なぜ始まりがあれほど整っていたのかという問いを先送りにはしません。創発的時間の導出に残る恣意性も、言葉で埋めるのではなく多様性として直視する必要があると感じました。
この二つを抱えたまま、それでも私は世界を一つの波動関数で捉える見方に賭けてみたいと思っています。宇宙全体の確率を一括して担う関数があり、エンタングルメントを通じて私たちの観測がその一部と結びついているという像です。観測は世界に現実を与える儀式ではなく、世界の中の物理過程として位置づけ直されます。視座の更新として残るのは、世界は見られることで初めて実在するのではなく、見られていないときも波として広がり続けているという感覚です。その広がりの中で観測は分岐の一つに自分を見出す出来事として理解できます。100年を経ても閉じない問いは、未解決であること自体が世界の深さを示しているようにも見えてきます。

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